森の生活


ソローの「森の生活」を友達に借りたのだけど、一向にすすまない。読みはじめはいつもこうなのだ。


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この3ヶ月ほど、森の中で生活してきた。
朝日と共に木々が光に包まれ、山の端から月がのぼると、夜は漆黒の闇となり野生動物がざわめいている。


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音という音は鳥の声や風や川などの自然のもののみで、静けさの中にも賑やかな時が流れている。

以前住んでいた家でも、キツネやタヌキ、リスや猿たちはよく見かけたのだけど、森の庭には鹿やイノシシ、カモシカの親子がやってきて、うちの猫たちと楽しみに眺めていた。


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雄猫のニャン蔵はすっかり野生に目覚め、巨大な蛾からほとんどの虫を捕まえては食べ、しまいには蛇(子供)も何度か捕まえてきた。
部屋をにょろっと彷徨う子蛇を逃がすのに、七転八倒した。
こうして私もさらにたくましくなった。



豊かな美しい自然の中の生活も、ひとたび裏返れば脅威となり、この間の台風には過去にないほどの身の危険を感じた。
折れた木々が家にぶつかり続け、森が囂々とうねり、ついには停電し、恐怖の中ただ過ぎ去るのを待つだけだった。
それでも何とか無事だったけれど、被害に遭われた方々を思うといたたまれない。


これは自然界の悲鳴なのではないのか。
私たち人間の暴走の果て、もういよいよここまできてしまったのではないか。

毎日人よりも虫や鳥や動物と過ごすことが多くなると、その生命の尊さに垣根がないことがより一層身につまされる。

どんな名前もわからない虫でさえ、その小さな命がつきるまで、必死に懸命に生きている。
植物や樹木も同じだ。


近年、熊が人の前に出ただけで殺されている。
そこにいるだけで殺されなければならない生命とはなんなのだろうか。
人間側の都合により、排除される運命とはなんなのか。
四国には熊がもう16頭ほどしかいなくなってしまったそうだ。九州ではすでに絶滅。

生き物全てに役割があり、自然界にはその循環をまわすどんな命も必要で、森でのその筆頭が熊であり、彼らが食べているのはほんの小さなドングリなどの植物の実で、これからの季節は何も食すことなくひたすら冬眠して身を守る。

何でもかんでも自分の都合でおしすすめる人間より、遥に弱くて儚い存在ではないか。

自分達の利便性と経済のためだけに地球を汚し、我がもの顔で立ち返ることなく闊歩する人間が、そんなに偉くなったのはなぜなのか。この方がよほど恐ろしい。


ソローがウォールデンの湖畔での森の生活をまとめてから、およそ200年。
おそらく想像以上のスピードで世の中は変わってしまった。

無力な私には解決策は見つからない。

ただ人も自然の一部であることを、忘れずに生きていたいと思う。