猫ぐらし
私の一日は、猫で始まり猫で終わる。
寒くなってくると、多いと4匹の猫がふとんの上に乗っていて、苦しくて目が覚める。身動きがとれず、片隅で私が寝る羽目になる。
それから飼育係のようにあっちへこっちへと、ご飯の時間となる。
この二年近くの間に、5匹の猫との別れがあった。
動物とのくらしは、いつも死と別れがすぐそこにあり、同時に新しい小さないのちが救えることもある。そして私が救われる。
この夏には2匹の子猫が新入りし、老猫中猫たちと入りまじり、子供たちの大暴れといたずらに翻弄され、老いた猫が具合が悪くなると心配して日が過ぎてゆく。
6月に拾ったニャン蔵の子育ては、療養中の私には大いなる心の癒やしとなった。
初めて抱いた時には強烈なゴミのような臭いがし、痩せ細って汚れていたニャン蔵も、みるみる大きく育ち、この上ない荒くれ者の大暴れで、他の猫たちも皆ほとほと疲れていた。
ピラニアのような凶暴さに、私の手足も傷だらけになった。
ジャガイモをくわえてきた子猫は、初めて見た。
夏の猛暑をどうにか老猫たちも乗り越えると、9月には三毛の子猫が現れ、人間を警戒しビクビク逃げ回って、ひどいケガをしていたのに捕まえられず、もどかしい思いをしたのだけれど、私が治療を開始して病院から帰った日、運よく家に入ってくれた。
抱きあげるとガリガリで、膿がでて穴が空くほどのケガだったけれど、嬉しさと安堵感で、腕の中で転がるほどベタベタゴロゴロ喜んだ。
三毛のミーちゃんはニャン蔵の恰好の遊び相手となり、子供たちは朝から晩まで大暴れし、仲良く眠る。
よくもまぁここまでやるなと思うほど、子供とは遊びといたずらの天才だと、子猫でも思う。
毎日何かしらが破壊され、タワシが和室に転がっていたり、風呂に落ちたり、冷蔵庫に入ったり、銀杏でサッカーをしたり、たった今もミーちゃんが階段から転がり落ちてきた。
解放された大人たちは、晩秋の陽だまりの中でよく眠る。
最年長のルルが体調を悪くして、病院通いで気をもんでいるけれど、ぐったりしている老猫のまわりで、子猫たちはおかまいなしに無邪気に遊んでいる。世の縮図だ。
また冬がくる。
幸福に見える猫たちのその裏には、遙かに上回る数の不幸な子たちが、寒空の中人知れず生死を重ねているけれど、束の間幸せな猫の姿に、人もおすそわけをもらうのだろう。
人生の艱難辛苦から逃れる道はふたつある。
音楽と猫だ。
本当にそうである。とつくづく思う。
(本でもいいな)