魂のゆくえ

第23候 紅花栄 べにばなさかう
寝待月


瞬きのようにひと月が過ぎますので、もはや月記にもおよばずにおります。
一生も深い瞬きのようなものなのでしょうか。


5月はご案内を頂き、吉村流 五世家元、吉村雄輝夫先生の追善の舞の会から始まりました。



生前、私の師匠と親しくしていらしたので、今思えば恐れ多い場に居合わせ、その芸や言葉のやりとりや空気感を、間近で感じさせて頂いたこともありました。

テレビで拝見した「善知鳥 うとう」は、狂気めいた凄みと情感と、舞台に張りついたようにさえみえる足の運びとで、
孤高の道を行かれた方でらしたように偲ばれます。

家元を継がれ、襲名の会が開かれる予定が、ご本人の追善の会になられてしまったことを思い出しながら舞台を観ていました。

悼んでいた私の師も、その数年後に逝ってしまいました。


会の翌日、師匠と先祖のお墓参りに行きました。祖父の一人は戦死ですので、遺骨も遺品も何もなく、誰も最後の姿は知らないようです。
その数ヵ月後、終戦となりました。


私は幼い頃から母方の祖母に連れられお墓参りに行っていて、大人になってからもよく行くのですが、形の見えない世界と繋がることが、心落ち着くところがあります。
(よく考えると初恋が鬼太郎でしたので、2、3歳児の女の子にしては危うい趣味ですが…)

自分の中に、目に見える見えないことへの境界線があまりなく、その方が自然に感じるものなので、その意味では導かれるようにこの世界にいるのかもしれません。


能は、生者が主人公ではありません。
ほとんどが生前この世に思いを残して死んだ人びとが、その魂の救済を求めて夢うつつの間に還ってきます。
霊でなくとも、花の精霊や鬼など、生身の人間ではない幽玄の世界です。



先日、友人に誘われ、ネパールの震災のチャリティ映画上映会に行って来ました。
ヒマラヤの山奥の暮らしの中、鳥葬の場面がありました。
その身を自然に還す。
捨身飼虎の根源的な暮らしが、今もごく当たり前にあるのだろうなぁと想像します。



新緑の森を歩いて来ました。


サクラソウ


ヒトリシズカ


ルリソウ


生命あふれるひとときです。