色は匂へど散りぬるを

 

           
四月に入りました。
早咲きの桜も散りだし、この時期のもの哀しさもあるけれど、同時に新しい季節がはじまる喜びも感じられ、すべてが足早に移ろっていきます。



思えば舞台も、一瞬で散る花のようなものかもしれません。


まるで何事もなかったかのように、何の記録もなければ、観た人の記憶の中以外、残るものはなにもありません。




縁の綱




葵の上


森田拾史郎撮影





梅の咲く頃に、お誘いを受けてとても久しぶりに、文楽を観に行きました。
昔は好きでよく観ていたのに、近年は能楽堂にいることの方が多くなってしまい、かえって新鮮な気持ちで楽しめました。

しばらくの間離れていると、出演の方々の顔ぶれもすっかり変わり、また、若い演者さんの活躍もみえて、不思議な感覚を覚えました。

まだ二十歳くらいの頃、吉田文雀先生に楽屋で特別に娘の人形を持たせて頂いたことがありました。
あまりの重量に、どの分野も美しさのその裏に、血と汗が流れていることを感じずにはいられませんでした。

その文雀先生の姿も、当然ながらありませんでした。



翌日でしたか、ふとテレビをつけると能の「邯鄲」をやっていて、会で共演させて頂いた松田弘之先生がお笛を吹いていました。
ちょうど楽(がく)の舞で笛が多いところだったので、凄まじい笛の音の迫力にテレビ越しに圧倒され、観ているこちらが息がつまり頭がくらくらしてしまうようでした。

全身全霊、何かを表現することに、小手先でできることなどあるはずもなく、たとえそれが一瞬で消えてしまうものだとしても、それを繰り返すことでしか今を残すことはできず、それ自体が儚く素晴らしいことなのだと思います。

邯鄲で盧生の見た栄華も、ただ一瞬の夢でした。


ところでこの
色は匂へど散りぬるをー は、
いろはにほへとちりぬるをー のいろは歌になっていて、諸行無常の意とかけ合わせてしまう昔の人の感性は本当にすごいものです。

すべては変わっていくけれど、それを受けとめ、ゆっくりと眺めていける自分でありたいと願わくば思います。


桜は散りはじめても、足元には毎年顔を見せる草花がそこかしこに咲いています。

スミレの花をひとつ、見つけました。