集いの夜と海女のこと


一昨晩、この四月よりはじめたお話の集いがありました。
古典からみる日本の美、日本の心ー
として、今回で三回目となります。

きっかけは、日本の芸術や文化に興味があるけれど、入るすべがわからない…という声に、何か古典への入口にできることはないかという思いからはじめました。

話す人、聞く人、という講演形式でない、テーブルを囲み、珈琲を飲みながら皆さんと一緒に話をすすめていく座談会のような形で、思っていた以上に皆さん楽しんで下さり、毎回あっという間に夜が過ぎていきます。

季節のお菓子とともに、全く初めて触れる方も、造詣の深い方も楽しめる会となってきました。



その都度ひとつテーマのようなものはありますが、そこから繋がることがいかようにも広がっていくよう、流れのままに話していきます。

今回は今度舞う「珠取海女」のお話を、能のことと絡めながら、藤原氏の姓はなぜ“藤”になったのかまで広がり、とても充実した一夜でした。

せっかくですので、物語を少しだけ。


龍宮に奪われた宝珠を取り返すため、讃岐志度の浦を訪れた右大臣藤原不比等が、一人の海女との間に子を儲け、その子を世継ぎにする条件で海女を海に潜らせます。海女は悪魚と戦い珠を取り返すも守護神に追われ、(死人を忌むという龍宮の掟を逆手にとり)自分の乳の下をかき切り珠を隠し入れ、海上に浮かび上がると息絶えます。
約束通り世継ぎとなった息子房前が母の話を知り、追善のために志度の浦を訪れると、海女の霊が現れ珠取りの模様を語り、我こそがその母だと明かし海の底に消えてゆきます。


約千三百年前の、
子を思う母の命をかけての物語。

能ですと後シテで、息子の供養によって海女は龍女となり、女人成仏となりますが、地唄舞(流儀で違います)では消えていったところで終わります。

女の母性を壮大な海の物語の中で描いていますが、初参加の能を深く嗜んできた方の意見がとてもいいものでした。

「私はずっと不比等を嫌な男だと思ってきた。珠を取り返すために身をやつしてやってきて、海のことを知り尽くした海女と契り海に潜らせ、取り返したらそのままで。(海女は十三年間誰からの弔いも受けず放置されたままだった)
だから子の行く末を思う母の心だけだと思っていた。
だけど、何度もこの詞章に触れるうちに、海女はやはり不比等のことを好きだったのではないかと思うようになった。身分違いの報われぬ想いを隠し、愛する人の子のために命を捨てたのではないかと思うようになった。」

というものでした。


その心は、その人の中にあり、演者の中にあり、
海女の中にあるものです。


能や舞はすべてを語りつくしません。
最後は観た人、受け取った人に委ねるものだと思います。

絵や歌や句、建築や庭でも、余白にこそ日本があり、
曖昧な美こそが、日本の美なのだと思います。

西洋的に白か黒かでも、こうであるとも言い切らず、決して押しつけない。
境界線のない世界を内在し、あらゆる受けとめをもてる、本当に豊かな感性と心をもつ国だったのだと思います。


こんなことがあったかもしれないし、なかったのかもしれない。
こんな人がいたかもしれないし、いなかったのかもしれない。

真実は、その人の心それぞれの中にある。
それでいいのではないかと思っています。