日本人ということ

寒くなりました。
まだ小雪過ぎたばかりで、札幌は大雪になったようです。
動物たちも冬支度に余念なく、すでに膨れきっています。

世の中に何があっても、自分に何があっても、できるだけ日常の小さなことは普通につとめるようにしています。

この間のえびす講の晩も、お供えをしながら、
こうして古くから日本人は、季節やその土地の神事や祭事を折々迎え、どんなこともやり過ごして暮らしてきたのではないかと思いました。
以前はけんちんと鯛を供えたのが、近年はもっぱら秋刀魚になってお許しくださいと言ったところ、えびすさまはにっこり微笑んでおりました。

日本の神さまは、とても優しい。


先週お笛の会がありました。
能管の松田弘之先生が、一管で吹いてくださいました。
気忙しくて時間が過ぎてしまいましたが、とても貴重すぎて、色々な思いが巡りました。

日本は深い。
日頃能舞台で聴く(観る)笛と、間近で聴く笛はまた全然違うもので、その迫力に、各々の表現の役割とか、自分のなすべきこととか、あるべき姿とか、勉強が足りないこととか、色んなことを笛一本で感じてしまいました。


能管の笛は、すす竹になるまで最低200年は燻されたもので、それを箸状に割いて、表と裏を反対にして筒状にし、何度も漆を塗り重ね研磨し、その下地工程だけで30層くらいあるそうです。
笛の中は石の壁、鏡の表面のようになっていて、何人もの人が吹き続け、やがていい音がでるようになるそうです。

松田先生が今のお笛に出会った時、すでに300年経っていて、その以前10人くらいの人がつかった様子で、そして松田先生の人生が積み重なり、
500年以上の時を経て今の音がでるかと思うと、言葉もありません。


もとは神降し(かみおろし)、魂沈み(たましずみ)から生まれた笛。
それ故に音律はなく、一管だけだとより根源的な音に溢れ、突きぬけて、なんだか理屈は一切いらない思いにかられました。

人はずっと昔から音を鳴らし、歌い、舞って生きてきた。
それは雨乞いだったり、豊作を願ったり、逃れられない苦しみや悲しみを慰めたり。
神仏も宮廷も里もみな、それが必要だった。

そして、音の変調にも季節や色がある、日本の豊かな四季、自然あってこその、繊細で美しい文化をもつ国だった。土臭さも崇高さも豊かにあった。
もう少し、誇りを取り戻したい。


どの方向を見回しても、末法の世の末期を迎えていることは否めませんが、
自分が思うこと、正直にいられることを、できる限り続けていくしかないのだと思います。

上手く生きられなくても、時間がかかっても、何かを積み重ね続けていけたら、それは小さくても確かな道ができるのだ—と、
このところの諸々の出来事が教えてくれます。


いつの日か、ほんとうの日本人になれるようにと思うこの頃です。