天鼓と思い出

雨水。
雪が雨に変わる頃。春の近づき。

昨日久しぶりに渋谷の能楽堂に行きました。
能 盛久、狂言 土筆、能 天鼓 を拝見。

盛久は現在能で直面(ひためん)、能の中では救いのあるいいお話しでした。
天鼓は以前からお世話になっている中村裕先生のシテでした。
前シテの王伯のしみじみとした情感と、後シテの天鼓のおおらかな舞姿に、気持ちをもっていかれました。

権力の気まぐれに命を奪われた少年と、それきり鳴らなくなってしまった鼓。
浮かばれない霊の慰めは、いつの世も変わらないものです。


帰り道、何年か前に佐渡で天鼓を観たことを思い出しました。

津村先生の佐渡での公演に、数日間便乗させて頂き、初めて見る景色や能の在り方に、(いい意味で)かるいショックをうけたのでした。

佐渡には今でも村のあちこちに古い能舞台が残っていて、それが田畑や海のそばの神社や林の中にぽっつりと立っていて、ごく自然に村人達のそばに能があったことを思わせる、不思議な光景でした。
世阿弥が流され、都から離れた遠い島に、どんな風に能が根づいていったのだろう。
佐渡の人は、田植えをしながら謡をうたったと聞きました。

遠くどこまでも続く海に夕日が落ちて、夜になると空には天の川が流れ、アイスを食べながら見上げていました。

天鼓はお能と、ダンサーの森山開次さんが天鼓から作られたKURUIの二本立てで、とても贅沢な舞台でした。
開次さんは佐渡の自然に流れるように溶け込んだ、風のようにきれいな方でした。
KURUIではその中の激しさも溢れ、佐渡の夜と松明と夏の匂いは、懐かしく哀しい、心に響く何かをもっていました。


日本中の村や島を歩いてみたい。
その土地の土の匂いや歌を聴いてみたい。
ポルトガルでファドを聴いてみたい。

人々がその土地土地に残してきたものへの思いに、ふれてみたい思いがつのります。